« 無差別殺人の「無差別」について | トップページ | ネコを飼う »

2008年7月26日 (土)

実の子でも他人

病院の待合室で。

「ざけんなよ、てめーっ」。若いお母さん(らしき女性)が、男の子を怒鳴りつけている。その男の子、ブリックパックの短いストロー咥えながら、顔を歪め泣き始める。叱りつけるというより、怒鳴りつける、恫喝だな。声をあげて泣き出した男の子の頭を、お母さん(らしき女性)が平手で小突く。人目も憚らず、割と平気なんだよな。

待合室に居合わせた人たちは、困ったような、怒ったような顔して俯く。わたしも、しかたなく、読んでいた本に目を落とす。

     産んだ子でも
     貰った子でも
     拾った子でも
     こどもは他人
     だからこそ

何故叱られているのか、何があったのか知らない。お母さん(らしき女性)は、まるで自分の身体の一部のように、その子の手を無造作に引っ張って、階段を下りてゆく。あいかわらず大きな声で叱りつけながら(罵りながら)。

まずもって、「子供はわたしの所有物」という根源的な思い込みがあるように思う。肉体は別々でも、感情的・生理的に地続きであるという錯覚。

いいか悪いかは別にして、いつもそばにいて生活しているのだから、同じように感じ、おなじように考え、同じように反応し……、と「そうなるはず」「それが親子である」という陥りやすい誤解。

「子供の人権を守ろう」とか「子供も一個の個性・人格」とか、もっともらしい主張を、わたしはしない(人権だろうと個性・人格だろうと、そんなものはある特殊な環境下であるからこそ可能な定義であって、そんなものに生命を託そうとは思えない)

ただ、単純に「自分の子であっても、ひとりの他人」という、あたりまえのことをあたりまえに認識していたら、こんなにひどく扱いはできないのでは?

「ああ、この子は他人だった」と思えれば、多少気に入らない、許せないことではあっても「しかたない」と諦めつくし、まして口汚く罵ったり殴ったりはしないだろうし、できない。もし日頃の不満を子供にぶつけているのだとしたら論外だけど。

     愛情だけで
     結びついてる訳じゃない
     皆ひとりだという
     かなしさと覚悟が
     やさしさを生むのだ
     

人はみな孤独である、親であれ子であれ、生まれ、死ぬときはひとり。まああたりまえか。

あたりまえなんだけど、この認識を深め、そして日常に浸透させない限り、こういう誤った「厳しいしつけ」はなくならない。自分の子こそ、他人の始まり。自分の子こそが、社会の鏡。

Flow
     

|

« 無差別殺人の「無差別」について | トップページ | ネコを飼う »

社会・出来事」カテゴリの記事

コメント

ゆきさん、御訪問ありがとうございます。
すいません、偉そうなこと書いちまって。
なにかしら親から影響は受けているわけで、それをどう処理するか、が子供に課せられた運命なのだと思う。運命というか、ここは肯定的に「使命」と受け取りたい、とかね。あれ? またも偉そうに!?

すべての子供たち(=すべての人間)よ、負けるんじゃねえぞっ!

投稿: joshuaki | 2008年7月26日 (土) 14時05分

こんにちは。お暑うございます。

身につまされる歌とお話です。

自身が「厳しいしつけ」のもとで育ってきました。
その反動か、ゆる~~~い母親になってしまいました(笑)
親だから何様だ?と思うのです。
彼らに育ててもらっております、わたしは。です^^;

独りだから、ありがたい。かな^^

投稿: ゆき | 2008年7月26日 (土) 13時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 実の子でも他人:

« 無差別殺人の「無差別」について | トップページ | ネコを飼う »