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2013年1月13日 (日)

他意×

体罰かどうかはともかくとして経験上

     暴力で
     人を従わせることは
     可能だ
     でもそれを
     教育とは呼ばない

それぞれの社会には、そこで生きてゆく以上従わざるを得ないルールがあって、それを破ったら当人どころか周囲にまでリスクが及んでしまうという場合、殴ってでも従わせる「体に叩き込む」必要もあるにはあるんだろう。

たとえば「しつけ」「掟」とか呼ばれるもの。それは、「これに従わないとおまえもわたしもこの社会では生き残れない」という切羽詰まった思いで、叩き込む側、しつけを施す側が「全身全霊」「全存在」を賭けて行うもので、そうであるからこそ、その社会においても当事者間においてもおおきな意味を持つのであり、そうそうたびたび発生するものじゃないだろう。

はっきりしてるのは

     殴られたり蹴られたりしたら
     ほとんどの子は
     自信を失い萎縮する
     そんな状態で
     よい結果は生まれない

     
     誰だって
     一方的に殴られれば
     自分を守ろうと
     下を向きこころを閉ざす
     こどもなら尚更だ

体罰を肯定する人たちの大半はこういう、「俺のいうことを聞け」と。

     優れた指導者は
     才能あるものを
     更なる高みへと導き
     自身を超えてゆくことを
     最大の喜びとする

     力を揮うものは
     その力に溺れ
     方向を見失う
     力を制するものこそ
     道を示すことができる

ただね、こうやって事件や時事ネタを論って、好き勝手手前味噌で論じるなんてことも、大変傲慢で暴力的なんだけれども。

     そうと知らず
     暴力を生み出し
     加担している疑いは
     生きている限り
     誰にでもある

 

 

 

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