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2013年6月29日 (土)

民主主義がわからない(リライト)

前出の同名タイトル記事、「民主主義」じゃなくて、文章自体が「よくわからない」だったので(笑)、改めてリライトしました。といっても「よくわかる」文章に治ったのかよ?! どんなもんでしょう。

≪リライト本編≫

先の都議選結果には、ぎっぱくん珍しく怒りを表明していた。曰く「今回の選挙なんて、ただの消去法の結果だろ」と。民主はありえねえ、かといって維新は大コケ、みんなは渡辺さんの顔つきがイヤ、共産党の言い分がいまや「いちばんまとも」に聞こえるとあったら…やっぱ自民・公明かよっ…て話じゃないの?!

数週間前の小平市、都市計画見直しの是非を問う住民投票。市議会はその成立条件に「投票率50パーセント(を超える)」を課した。実際の投票率は35.17パーセント。結果、開票すらされていない。一方、この都議選、投票率43.5パーセント。で勝った負けたと。片方で民意をきちんと捉える為の指標が「50パーセント」だとしたら、もう一方の都議選投票率43.5パーセントはどうなのか。

民主主義は「数の論理」という。この「論理」とはなにか。多数決だとする。しかし、有権者の半分以下の投票率で、しかもその中の投票数で「圧勝」だの「完敗」だのは、どうみてもおかしいんじゃないのか、と。

数が多ければ従う。それはそれでいい。投票しない有権者にもいいたいことはある。意志表示しないのもどうかとは思う。が、意志表示の方法が選挙・投票しかないというのも、いかがなもんなのか。

正しい/間違ってるは、数では決まらない。政治は正しいことだけやってりゃいいってもんじゃない。そうかもしれない。

正しくないことを多くの人が信じ、それを推し進め、それ故に禍いを招いたとする。それは困る。だから、選挙による代表者選びをする。代表者が責任をすべて引き受けることで、投票者は責任を逃れられるように。嘘じゃない。憲法にこうある。「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」。

代表者が責任を負う。失敗すれば、腹を切れとまではいわないけれど、何らかのペナルティを課す。でも、嘘ついたり、権力を恣意的に揮ったりしたら、そりゃあ重罪だわな。そんな奴ぁいわば民主主義教の人身御供とすべきなんだ。だからこそ投票者は「今度は犠牲を払わない」「民主主義の神様のお怒りを鎮める」ように、まじめに、慎重に代表者選びを進めるというシステムなんじゃないのか、簡単に言うと。

しかし日本では代表者は責任を問われない。だって多くの人に選ばれた「偉い人」だから。「わたしたちの罪を被ってくれた」「わたしたちの間違いを体現してくれた」偉い人だから。大事にしなくちゃいけない。今度はわたしたちが「守って」あげなくちゃいけない、と考える。悪いのはわたしたちだ、と。

で、結局はだれも責任をとらない。おらたちが悪い、だからしょうがねえ、またやりなおしだ、んだんだ、またはじめからやりなおせばええ、悪いのはおらたちなんだから…、いつまでたっても何も学ばない、知恵もノウハウも蓄積されずに、いつまでも「下々の者」「その他大勢の信者のひとり」に居座り続ける。

数の論理とは、この国では「より多くの人が、おなじことを感じ、おなじことを思い、おなじことを願うこと」だと信じられている。「そうでない奴は異教徒」「非国民」と。民主主義は「なんでもあり」ではないと思っていたが、この国ではそれでもいいようだ。

     民主主義は
     数の論理
     多ければよい
     多ければ正しい
     多ければ安心

     みんなが
     これでいいとすれば
     それが正しい
     それが安心
     それが真理

ここで生きる覚悟とか、ここから明日を迎えようという意志とか、この国の人々にはそういう意識構造が根本的に欠けているのかもしれない。

 

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