むすめは猫である
むすめは猫である。名前はもちろんある。両親も健在、ぼくら夫婦である。野良猫の身から、このうちの養子に入る。八年前になる。
はじめのうちは、おたがいにどうしたらよいか馴染めず、むすめもぼくら夫婦も、ぎくしゃくしたなかで過ごした。なんとか落ち着くまでに半年かかった。いまではすっかり親子である。
むすめと妻は会話する。「おかあさんブラシでごしごししてっ!」とか「抱っこしてほしいのになんでお料理なんかしてるのっ!?」とむすめが訴える。「はいはい今行きますよー」とか「おとうさんのお夕飯作らなくちゃいけないでしょっ!」と妻が応える。おなじ部屋で、静かに音楽聴きながら、たがいにそっぽ向いて昼寝してたりもする。
昼間はおかあさん子が、夜はおとうさん子になる。
このうちで暮らすようになってから、出張で外泊した日以外ほぼ毎日、むすめはぼくと眠る。両脛に毛布、そこへフリース地のひざ掛けを掛けて、その上に乗る。お尻をこっちに向け、前脚でふみふみしてから、香箱を組む。それからぼくも横になる。目が覚めても脛の上で、いつの間にか丸くなって眠っている。
みじかい期間だが野良だったからか、むすめは日に一度は外に出る。本人にしたら「おさんぽ」くらいの気持ちなんだろう。首輪をして、窓を開けてあげると、とんとんっと縁側に踏み出す。遠くへは行かず、うちのまわりで、昼間ならひなたでじっとしていたりする。
ときどき夜中にさんぽする。今夜も「ちょっと行ってくる」という。気をつけてね、と窓を開ける。
「猫は死期が近づくと姿を隠す」と聞く。いままでの飼い猫の何匹かがそうだった。長く患い、涙やよだれがとまらなくなり、目もよく見えないだろうに、外に出たいという。それを何度か繰り返し、いつか戻らなくなる、それっきり帰ってこない。
猫の行動に「裏切り」とか「恩を仇」とかの意味はない。からだがきつくて、思うように動かない、とりあえず静かなところで休みたい、それだけなのだろう。そこでそのうち動けなくなり、やがてはひとりで死を迎える。猫だもの、人間とはちがう。でもぼくらにとっては、忘れられないくらいかなしい。
むすめもすこしばかり、年をとったようにみえる。部屋中を走り回る夜中の運動会も、猫じゃらしに転げまわって遊ぶことも少なくなった。
むすめもいつか、毛並のつやもなくなり、目もしょぼしょぼし、寝てばかりで過ごすようになるのだろう。いずれは老いて、食欲も落ち、痩せてお迎えを待つばかりになるのかもしれない。そんなになって「お外に出たい」と、止めるのも聞かず、弱々しい足取りで出てゆく。振り返りもしないで。そしてもう帰ってこない。そんなのはいやだ。そんなのは堪らない…、
などと考えながら、むすめの帰りを待っている。帰ってくるのが遅いと、本を開いていても頭に入ってこない。
平穏がいつまでも続かないのはわかっている。それは一生の間にすれば、ほんの一瞬なのかもしれない。束の間であるならそれでもいい。過去を悔やんだり、未来を憂えたり、あれこれ余計なことを考え悩んだりせずに、もっと素直に「今このとき」をよろこべればいいのに、と思う。猫であっても、人間であっても、「今このとき」精一杯しあわせであれたら、ほんとうはそれだけでいいのかもしれないのに。
あっ、帰ってきた。お帰り。
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コメント
初出にほんの少し追記・リライトしました、あしからず。
投稿: joshuaki | 2013年6月29日 (土) 20時22分