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2016年5月 4日 (水)

気分と政治的意図

「保育園落ちた…」を発端に、政治の世界のみならず喧々諤々の世論も、あっちで震災が起きれば、こっちで事故が起きれば、と、いまや「そんな話もあったねえ」と話題にも乗らない。

そもそもの発端であるツイートもも「保育園落ちた…、だからこうすべき」といった政治的意図があった訳ではないだろう。むしろそうした意図的なものから距離を置こうとして、そうはいっても収まらぬ腹の虫が、「呟き」として表れたのではないか。意図せざる意図。政治的ならざる政治的発言。

これを皮切りに、政治家それぞれが迎合的/否定的に言動を繰り返すのだが、いずれの御仁も事のなんたるかを理解していない、というか理解しようとすらしない。

簡単に言えば、政治を語る者たちが、もはや容易には現実を把握しえない、把握しようにも手の届かない状況にまで追い込まれているということ。

「匿名だから…」「本当に女性が…」云々からもわかるように、「このことばが、このことば遣いそのものが、他でもない、自分たちの支持者から発せられた」ということが、理解できない。

「政治は政治家が語る(べき)もの」「権力は権力者が独占する(べき)もの」と信じたい連中の「だからこそ、こうあるべき」という言動は、「おまえの云ってることは信じられねえ」「おまえらのやることに賛同できねえ」という気分を助長することにしか寄与しない。アメリカの大統領候補者選びも似たような現象のように思える。

「気分」は危険なものだ。「なんとなく…」「よくわかんねえけど…」と、文字通りよくわかんねえまま、然したる意図もなく、状況判断を、態度を、物謂いを決定する。

けれどじゃあ、理性的思考が、政治的意図が、そうした判断を、態度を、物謂いを正しく扱い、正しく答えを導き出すかというと、そんなことはなくて。

方や情緒的背景が、方やイデオロギッシュなバイアスが、舵を誤らせる。

気分と意志、不作為と意図、表出と表現…、どちらもが対立概念として機能していては、政治を正しく行えないだろう。情と知、感情と理性…、いずれかが上位にあるとする価値観はもはや通用しない。

     政治とは
     あなたと
     わたしの
     あいだで働く
     気持ちと意志

 

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