文化・芸術

歌の整理

あ~、ここ半年、ノートやWebに書き散らかした歌を文書ファイルにまとめなきゃならない。めんどくさいんだ、これが。ノート三冊の手書き文字を、読み起こして(解読して)PCに手入力する。あ~やだ、この蒸し暑い季節に、なんでまた?!

     なんの役にも
     立ちはしないけど
     なにかの役に
     立つかもしれないと
     続ける営み

基本的に、わたしの歌は、わたし自身が創ったものではないので/天からの授かり物なので、その貴重な宝物が未整理のまま散逸してしまうのを食い止めるためです(笑)。

いや冗談でなく、歌っていうものは、詠もうと思って詠めるものじゃない/創り出そうと意図してできるものじゃない訳ですから、わたしの歌は自分(というか顕在意識といおうか)の詠んだ/創った歌とは言い切れないんですね。
だから、それに価値があろうとなかろうと(というか価値の有無すら判断できない)、すくなくとも誰かに読んでもらうまでは、きちんと管理する義務があるんです。製造者としての責任というより、製品の品質管理というべきかな。

自分で書いたメモ書き文字の読みにくいこと! 左手で書いてんのか?! 運転しながらや満員電車の中で書いてるからしょーがないんだけどね。

そんなこんなして書き溜めたのが、これ。

Fat

約6000強の歌。A41枚に10首として600枚。わたし以外にこの6000首を読み通したのはギッパくんだけ。

Fat2

いずれはこれを分類して整理したいんだけどね、これがまた大変。まず、なにをどう分類するか、そこからの話。どなたか巧い方法お教えいただけませんかね?

    

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国のない男

図書館で借りず、久し振りに定価で買った本。

     声をあげず
     喉の奥に
     嗚咽を押し込める
     かなしい男に
     なってしまった

「成り下がった」とまで書けなかった。そこが僅かながらのプライドか。

⇒  http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00812512007

早川じゃなくてNHK出版だぞ、『ヤングミュージックショー』『若いこだま~ヤングジョッキー』『ハッチポッチステーション』…わしゃNHKには恩義感じ取るからな。

がんばれNHK!D・ボウイの来日公演を是非アーカイブで再放送を! あと、C・スペディングの出てたB・フェリーのライブも!

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死語その1

「愛」ということば。

     いまさらもう
     愛という
     ことばでは
     伝わらない
     思いのたけ

     愛という
     ことばは
     いまではもう
     意味を失った
     ぬけがら
      
とりあえず替わりとなることばがないので、皆しかたなく使っているだけ。

     あなたのことを
     大切に
     深く
     いのちの限り
     思っている

     あなたへの
     まっすぐな思い
     愛とは呼べない
     もっと深い
     なにか

     

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オリジナル幻想

まったくのオリジナル作品を創り出すという、そもそもの矛盾。

     オリジナルを
     捻り出すために
     模写しろ!
     真似しろ!
     コピーしろ!

学ぶ≒真似ることからしか産み出せない。すくなくともわたしの場合は!

 

     

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描写

『芸術』を語れるほどの頭もなければ腕もない。時間を描写する手段を比較してみる。

     一瞬を切り取るのが
     写真
     時間を
     抱きしめるのが
     絵画

     シャッターは
     一瞬を切り裂く
     絵筆は
     時間を色で
     なぞるのだ

     自然には
     ありえない
     色で描く
     たとえば
     青い薔薇

   Am002_3

Rose02001

Ship0003

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本音の本音

歌を詠む。

    あたりまえのことを
    いつものことばで
    曲げず譲らず
    飾らずに
    そのままを詠む

    メモできる
    ことばは
    ほんとうの
    望みでは
    ない

    簡単に
    簡潔に
    あたりまえのことを
    あたりまえのように
    詠ってゆきたい

    つぎはぎだらけの
    ぼやけた世界像を
    またもや切り刻み
    醜悪に再生し直した
    ことばの連なり

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片岡球子女史

訃報。

葉山の美術館での、100歳を記念したおおきな個展に女房と出かけていった。もう二年前か。

     こどもが描くような
     おおきな富士を
     おとなも描けない
     おおらかさで
     描ききる

合掌。
     

     
     

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ムンク展

ムンク展に行ってきた。『叫び』は盗難事件の余波だろうか、来日(笑)はなし。今回は『マドンナ』『不安』『吸血鬼』…と有名な作品は比較的最初のほうに並んでいて、ちょっと疑問。今回は、ムンクの芸術の「装飾性」にスポットを当てていると知り、まあ納得。主として建物の装飾として描いた作品、装飾を目的としたレイアウトなどのムンクの構想(下絵や実際の作品の配置まで)展示されていた。

     作者の意図とは
     かけ離れて
     それでも人々に
     受け入れられる
     ポピュラリティ

その「装飾性」だが、現代に生きるわたしの目には、なんだか食い足りなく見えてしまう。「ああこれいいなあ」と思った『歴史』のリトグラフも「なんかジブリ作品のようだったなあ(むしろジブリのほうがもっと上手なんじゃないか?)」と後から味気なく思ってしまった。絵というよりも飾りでありデザインであるのがまずつまらないし、なによりも現代にあっては「古さ(古臭さ)」を感じてしまうのだ(当り前か)。

結局、ムンクといえば思い出される(展示されていないにも拘らず)『叫び』とか『不安』とか『マドンナ』だとかのほうが遥かに印象は強く、惹き寄せられてしまう。というのも、そのテーマがより人間的で、建物の装飾などよりも、いまの時代に生きる不安であるとか孤独であるとか、そういった精神性のほうが、より身近で切実に感じられるからだろう。それらの作品の放つ、根源的な、生を抉り出すような迫力に、人は反応してしまうんだ、きっと。そういう意味で『不安』『マドンナ』等は、この時代に充分に通ずる普遍性を勝ち得ているのだと思う。

それに引き換え「装飾性」といった抽象的な意味でのムンクの到達点は、今という時代から観れば「歴史」的な価値・意味しかないように思える(のはわたしだけか)。おばさんたちが「『叫び』ってどこに飾って(笑)あるの?」って訊きたがる気持ちはよくわかる。ムンクにおける日本でのポピュラリティは、ある意味ムンクの芸術性の本質を突いているのではないかと。ムンク本人の意思には反するかもしれないけど。

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