なにせ田舎に住んでいるもので、このあたり『○○メモリアルパーク』とか『△△霊園』といった共同墓地が林立(とまで云わないが)している。南向きの山の斜面を切り開き区画整理のしてある、いわばお墓の住宅地。
広告に
載っている
美しく
暮らしやすい
集合墓地
ひさしぶりに父方の先祖の墓参りに行ったが、お寺の裏の墓地は山頂に向かいずいぶんと拡張されていて吃驚。『へぇ、いつの間に…』となんとなく石段を昇り、途中で振り返って眺めると、これがまたちょっとした景観。
昇るほど真新しい墓石や石塔が幾つも建てられていて結構な賑わいぶり。生きているうちはもちろん、「日当たりが良くて」「見晴らしが良くて」「広々として」と死んだ後の事まで心配なんだろう、ここに葬られる人たちは。
切り開いた
山頂に
あとすこし
迫っている
墓地
毎年何回か訪れる母方のほうの墓は、更にうんと山奥で、クルマを途中に停めて、山道を歩いて登ってゆく。裏手は山の斜面、手前は一面の畑。きっちり区画が区切られている訳ではなく、角の丸くなった墓石や変色した卒塔婆が立ってなければ、ただの空き地。長閑といえば長閑。
苔むした墓石に水を遣り、縁の欠けた泥のこびりついたガラス瓶に切花を挿し、型どおりに手を合わす。
朝早いのもあって、周りには誰もいない。もっとも農家の方ならもっと早起きで今頃は朝食でも召されてるだろう。営林署が管理している裏山は綺麗に伐採されてはいるが、かえってそれが薄ら寒い。遠くで鳥の声がするだけ。なんとはなしに「こんなさみしいところに、ご先祖(の霊)はいないだろうなあ」とぼんやり思う。
西欧には、立派なお墓がたくさんあるんだそうな。たとえばキリスト教には、最後の審判という大イベントが予定されていて、いずれ(近い将来?)開催されるという。それには既に死んでしまった人たちまでも出演が強制されているようで、そのためには死んだ後も何があっても魂の宿る肉体(?)が損なわれないよう、頑丈な石棺や石造りの室など等が必要となってくるだろう。そりゃそうだ、出番が迫っても自分の身体が塵と朽ち果てていたら、ゾンビ映画でも出番はない。
測量して
きっちりと
収まる
棺を納める
穴
「いずれはお骨を土に返してあげたいねえ」と母はいう。「自然に還す」のだそうだ。人として生きた命もいずれは土に還ってゆく。諸行無常、盛者必衰、云々…、日本人らしい感覚なのだろう、わたしにも半分くらいは同意できる。
霊の存在だとか前世だとか、わからない。ただそれがあったとして、いつまでも生きていたときの意識とか自我を持ったままだとしたら、それはとても不幸なことだと思う。足かせでもあり限界でもあった肉体(物質)から抜け出せたのだから、物理的な制約は相当に軽減されているはず。生きている(た)間に比べたら格段に「自由」であろう。にも拘わらず、いまだ「不自由な」生に拘り続けるとしたら、それこそは煩悩というべきだろう。
「自然に還す(還る)」というのは、そういった「生きているうちに味わった」一切の思いや感情から解き放たれて、それこそ生まれる前の(あるいは生まれた時の)まんまの自然状態に戻ってゆくことだとしたら、とても共感できるのだけど。宗教が「宗教」して信仰される以前の、この島国に生きていた昔の人たちは、どう思い感じていたんだろうか。
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