悲喜劇
『渥美清の泣いてたまるか』を視る。昭和40年代のテレビドラマ。脚本もしっかりしていて(この回は橋田寿賀子!)、毎回見応えのある一話完結もの。毎回渥美が主役を演じ分けるのだが、その熱演ぶりに思わず引き込まれてしまう。渥美清という役者の魅力はなんといっても、その誠実さじゃなかろうか。このドラマの後に始まる『寅さんシリーズ』も、誠実に、熱意を持って演じていたのだ。
車寅次郎という
ペルソナに
なぞられ語られてしまう
渥美清という
役者の悲喜劇
「盆暮れには寅さん」とまで、一時は風物とまでなったシリーズではあったが、映画の質そのものは数を重ねる毎に下降。完全にマンネリ化したシリーズ後半では、何度も失恋を繰り返す万年モラトリアムの寅次郎が甥っ子満男の恋の指南役を務めるというアイロニーを許すまでに低下した。
「渥美清イコール寅さん」としか語られない今となって、ある意味、役者/渥美清は観客によってその才能を食い潰されたとしかいいようがない。
渥美自身、「イメージを損ないたくない」という理由から『男はつらいよ』以外の仕事を拒否していたというが、それ以上に世間の善男善女が強烈に求める「寅さん」のイメージを演じ続けざるをえなかったのではないか。永遠の放蕩息子であってほしいというプレッシャー。
では誰の息子であったか。観客の、である。ファンである世間のおいちゃん/おばちゃんが、大人になりきれない寅を、寅ちゃんを必要としたのだ。いやおじ/おばだから、息子ではなく甥っ子か。だからこそ無責任になれる訳だ。いつまでたってもダメな寅、モラトリアム寅ちゃんが頼る、心優しい善良なおいちゃん/おばちゃんという立場に安住し続けたいが為に。
そして寅次郎は大人へと成長することなく、そして無責任な立場にあるおいちゃん/おばちゃん=観客は、寅次郎を大人へと育てあげることを拒否し続け、終には主演/渥美の死亡により、寅次郎はなにひとつ、恋愛ひとつ成し遂げることなく、シリーズは終了となる。
不幸は、凡人にとって「ルーチンこそが快感」であるという事実に尽きる。成就しない願望を抱き続け右往左往すること自体、凡人にとってはひとつの達成事業なのだ。来る日も来る日も繰り返すそのこと自体が、なによりも安全であり平和であることをよく知っている。「成長」が変化・変革をもたらすということも。
寅次郎を大人へと成長させられなかった社会はどうなったか。それが現代である。
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